宇井 純教授は東大では万年助手だった。それは、自分の信念を貫いて、権力者に都合の悪いことを言い続けたからだ。
公害問題に関する講義をあんぐらで行い、それが元でずっと助手を続けていた。一生助手で終わるかと思っていたら、沖縄大学に教授で行かれた。
大学生はこういう正義派に対してどう向き合うのだろうか?とんでもないことが行われているということを無視して自分の世間的な成功だけを求める人も多いだろう。
今や、国の研究費を獲得するためには、御用学者になるのが最も手っ取り早い。研究成果よりも、官僚の役に立つことをやる、官僚が予算を獲得するのに役立つ助言をする、官僚が気に入った学者に研究費をつけるのを理論武装で助ける、そういうことに役立つ御用学者というのが出世するのは世の常だろう。
記憶に新しいのは薬害エイズや、タミフル問題ではなかろうか?
ここでも御用学者がいたのでは?と勘ぐりたくなるのは自然な流れではなかろうか?
しかし、宇井先生は常に国民の方を向いて弱者の救済に人生をかけられた。
目先の損得から言えば、社会正義を貫いて、権力者から疎まれることは決して賢いやり方ではないかも知れない。
だが、人生全体として見た場合、悪いことをとことんやってのし上がるよりも、正義を貫いて左遷されるのであれば、それも望むところ、という潔さを感じる。
こういう人がいなくなれば、人類は滅びるのではないか?
もちろん、誰もが宇井先生のようになれるとも思わないし、なる必要も無いかも知れない。
だが、そういう良心的な東大助手がいたことだけは記憶に留めておきたい。
本当の人生とは何か?自分は何をやるためにこの世に生まれてきたのか?
世俗的な成功だけが成功なのだろうか?
こうした問いかけをたまには自分にして、金儲けや出世だけに走ろうとする自分を戒めている。
宇井先生語録:
「この中にひとりでも自らの首をかけて職務を全うしようという者はいるだろうか?環境庁ができた頃には、市民側に立ち、命を賭けた職員もいた。」
「住民との板ばさみで苦しんでいるとよく言うが、はさまれて苦しむどころか、環境省の役人こそは住民たちのために板になれ!」
「現場に立って考えること」
「権力に媚びないこと」
「たったひとりでもやり抜く志を失わないこと」
宇井 純(うい じゅん、1932年6月25日 - 2006年11月11日)は、公害問題研究家。沖縄大学名誉教授。元東京大学工学部都市工学科(衛生工学コース)助手(実験担当)。東京都出身。
1956年、東京大学工学部応用化学科卒業。日本ゼオンに勤務した後、1959年に東京大学大学院工学系研究科に戻り、応用化学科、土木工学科に所属し、1965年に新設の都市工学科助手となる。専門は下水道。
従来の科学技術者の多くが公害企業や行政側に立った「御用学者」の活動をしてきたと批判し、公害被害者の立場に立った視点を提唱し、新潟水俣病の民事訴訟では弁護補佐人として水俣病の解明に尽力するなどの活動を展開した。 ペンネームとして富田八郎(よみは「とみたはちろう」、または「とんだやろう」)を用いたことがある。
1970年より、公害の研究・調査結果を市民に直接伝え、また全国の公害問題の報告を現場から聞く場として公開自主講座「公害原論」を東京大学工学部82番教室にて夜間に開講。 以後15年にわたって講座を続け、公害問題に関する住民運動などに強い影響を与えた。こうした活動は大学当局にとっては非公認の活動であり、都市工学科の内部では「万年助手」の地位にとどめられる。外部からは、同時期に都市工学科の万年助手であった中西準子とともに「東大都市工学科の良心」とみなされることもあった。
一方、カルト団体幸福会ヤマギシ会を支援するなど、負の側面も見せた。熊本日々新聞編集委員・春木進は、「宇井氏のヤマギシ観にも、コミューンへの抜きがたい共鳴や支持の心理があるように感じられる。そして革新的な団体は人権を侵害するような行為はしないという、幻想に近い確信も…」と述べている(『救い』の正体,『カルトの正体』)。
1986年、21年間にわたった東大助手の職を辞し、沖縄大学法経学部教授に就任。沖縄の環境問題をはじめとして世界的な環境問題に取り組むとともに、公害論の授業(月曜日2コマ及び6コマ)を担当した。 また公開ゼミナール「沖縄の水」(月曜日7コマ)では、実践的環境公害問題研究を行っていた。このゼミナールは学生から、「限りなく体育系」と呼ばれていた。
2003年、沖縄大学を退職し名誉教授の称号を授与された。
2006年11月11日、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため、東京都港区の病院で死去した。74歳。
(Wikipediaより引用)
